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官僚制度と計量の世界(22)
Bureaucracy and Metrology-22-

 幹部候補生は結核で除隊 外務省の嘱託官であった 福島新吾の場合
The case of Ministry of Foreign Affairs official Shingo Fukushima
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
幹部候補生は結核で除隊 外務省の嘱託官であった 福島新吾の場合

官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(22)結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合執筆 夏森龍之介

(本文)

幹部候補生は結核で除隊 外務省の嘱託官であった 福島新吾の場合


1945年9月2日の戦艦「ミゾリー」号艦上での降伏文書調印式の当日、福島新吾は港区田村町の元の日産ビル(当時は満州重工業を作った日産コンツェルンとして有名)にあった終戦連絡事務局(8月26日に占領軍と日本政府との連絡のために外務省の外局として新設された)に出向しており、電力不足で昼も薄暗い大きな事務室の一角で、配られた「指令(名前は不正確かも)第1号」「第2号」の綴りに驚いていた。旧称は日産館。別称は日産ビルディング(日産館時代)。日産コンツェルンはそれまで麹町区八重洲町(現千代田区丸の内2丁目)にあった三菱仲15号館を拠点としていたが、事業の拡大によって手狭となってきた。そのため、芝区田村町(現港区西新橋1丁目)に自社ビルを建設することとなり、1934年11月に着工、1937年7月に竣工した。

幹部候補生になったが結核のため招集解除 外務省に嘱託官として勤めていた男の終戦

学徒出陣した東大法学部学制の福島新吾は幹部候補生になっていたが結核のため招集解除

 この男の時代の東京大学、1944年のころの東京大学は東京帝国大学の名称であった。旧制高等学校が三年制、東京帝国大学も三年制。東京帝国大学法学部政治学科二年で学度動員制度が制定されたために卒業扱いとなり徴兵に取られた。叔父が外交官であることもあって外交官になるつもりでいた。仮卒業の手続きをしたのは復学して残りの科目を履修したいこと、戦死するなら学制の身分のままでいたい、という二つの理由による。終戦となり復学して履修するうちに学務課に問い合わせると手続きすれば卒業として取り扱われることを知る。知っていれば高文官試験の外交科を受験して外務省に入省している筈である。初年兵教育を受け幹部候補生になっていたが肺結核が悪化して除隊となり、外務省に嘱託官として勤務して終戦時の業務を経験する。麻布中学、旧制一高、東京帝国大学法学部の経歴であり、成績優秀であったから外交官を望めばなれたことであろう。旧制一高、東京帝国大学法学部とともに歩んでアダム・スミスの諸国民の富を二人で読み合わせていた友は大蔵省に入り事務次官になっている。

 男は後に『学徒出陣落第記』(1993、オリジン出版センター)を出版。1943年冬の学徒出陣に参加し、病気に倒れて一年で陸軍から復員した。1945年の4月20日、当時未だ霞が関の外務省があった外務省に縁故をたよって就職を運動し、5月22日採用、24日からここに勤務した。辞令は6月4日、外務省嘱託、調査局第一課兼第三課勤務、月手当六十円支給。

外務省終戦連絡事務局は占領軍のメッセンジャーボーイ

 学徒出陣落第記の男は終戦を何故と問い返す。外務省終戦連絡事務局は占領軍のメッセンジャーボーイとして働いていた。

 何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか、そして国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。またそこに何を期待していたのか。しかも軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。その国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのかなどなど、分からないことだらけのまま、敗戦の天皇の放送を涙で聞いたのであった。

 上を箇条書きにする。何故なのか分からないことだらけのままに、、敗戦の天皇の放送を涙で聞いたのである。

何故このようになってしまったのか 模索の人生が始まる

一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

秘密だがポツダム宣言の受諾がきまって連合国と接触中だ」課長は破顔一笑助かった

 1945年5月の空襲で東京霞が関の外務省庁舎は罹災した。焼け跡を囲む古典的な飾りのついた鉄柵ばかりが残って哀れであった。その前に外務省調査局は、今の東急東横線学芸大学駅に近い、当時の東京第一師範は学徒勤労動員で休校状態だった。現在の東京学芸大付属高校を分室として移転していた。本省はどこに移ったのか知らない。

 8月の11日か12日、その一室で、隣の課の課長がいつもより多い四、五人の課員を集めて「まだ秘密だが、ポツダム宣言の受諾がきまって連合国と接触中だ」と伝え、破顔一笑「助かった。これで私の家は焼けないですんだ」とつぶやいた。私はかねて課内で読んでいた外国公館からの秘密電報の内容などから、近くこんな結末になろうとはおよそ承知していたから、事柄には驚きはしなかった。しかし国家の重大事に対するこの課長のあまりにも私的な受け止め方に心から腹を立てた。

陸軍の抗戦派青年将校に似た感情 「裏切りだ」

 別に神州不滅の狂信に心から同調していたわけではない。ナチスやファシストのような特定の党派に属していたわけでもない。だがこの発言を聞いた私の反応は「裏切り」という感じだった。

 イタリア降伏時にファシストがバドリオ政権に反発した。又第一次大戦後のドイツで、軍部支持派は降伏した政府当局者たちを"DolchstoB(ヒ首〔あいくち〕の一突きを背後から戦線の軍隊に刺した)"と非難した。私の感じはそれに似たものだった。

 昭和大恐慌以後の農村崩壊から脱出するには、日本が中国資源を排他的に確保することが不可欠だというドグマを長い間の宣伝によって信じ込まされていたのであろう。頼みの幻の巨大戦艦「大和」「武蔵」も、空母も飛行機も失い、もう肉弾以外にはほとんど戦力が無いことも省内の秘密資料で承知していた。しかもなお日米開戦前のハル・ノートの条件から若干の緩和をかちとるまでは戦争をやめられないと妄信していた。大本営発表の決死の切り込み攻撃や最後に予想された焦土決戦に何らかの効果があると誤信していたのである。

 陸軍の抗戦派青年将校と接触していたわけではないが、同じ発想であった。敗戦後の農地改革、財閥解体、労働権の保障等々によって、奇跡の高度成長をとげた今では正にバカげたと考えられる展望しか持てなかったのである。

敗戦のさなかに無為に生き延びている自分を責めていた

 まだ兵役から病気で復員して、大学在籍のままの一嘱託に過ぎない身であった。しか し何でも腕力に訴える兵隊社会ならここで課長にビンタをくわせるところだとまで憎悪 を感じた。戦争終了で幸いに自分の家も焼け残るのだし、軍籍にある兄達の安否は不明だが父母と自分の生命の安全は保証されるのに、その喜びを感じなかった。同年配に続々と戦死者、特攻隊出撃者があり、東京周辺では多くの空襲焼死者が出て、敗戦のさなかに無為に生き延びている自分を責めていたためだろうか。この発想は今日の靖国参拝を重視する政治家の思考と類似している。

 死者の追悼の仕方、死の意味のとらえ方、死後の霊魂の存在の信仰などの感覚に問題があるだろう。また生活実感の無い独身者だったためでもあるか戦時の殺伐たる生活の中で、「死」にさえ無関心になっていた。生命の価値をまるで知らなかったようだ。結局自分もその時にいあわせた同僚もただ沈黙して受け止めていたが、どんな印象を持ったのか、別れるまで聞く機会を持たなかった。

特攻出撃態勢にあった人は救われた意識が頬のゆるみとなったという

 戦後解放史観が通説となり、降伏によって死を免れた喜びを感じたとするのが定説になっている。勿論戦前からの社会認識により、体制転換を実感した世代、知識層があったことは間違いない。また破滅に打ちのめされて、絶望におちいっていた国民の大多数が、安堵を覚えたことも事実である。しかしそれにもかかわらず、停戦に矛盾する気持ちを抱いた国民が、当時それ程少なかったのだろうか。今日に至るまで、疑問とする。友人の数 人に聞いたところ、特攻出撃の命を受けていた人は、救われた意識が頬のゆるみとなってあらわれたという。

降伏に順応した者に怒りを覚え睨みつけることも

 直接攻撃の立場になかった基地勤務者などは、同輩の戦死を頭に浮かべて、割り切れない思いを抱き、敵ないし降伏を命じる上官、さらには兄弟の間で、降伏に順応した者に怒りを覚え、「こんちくしょう」と睨みつけたとか、下士官が剣をふりあげて、将校に迫ったとかいう。戦争下の狂った心境にあっては、停戦即解放の反応は素直には出なかったのではないか。当時はそれがくすぶったまま、やがて和平の建前に統一されていったことも多かったのだと思う。そこでも日本人の大勢順応主義が働いたであろう。それが結果的には正しかったのであるが、真の体制転換には遠かったであろう。

玉音放送の発音とアクセントの異様さ驚きと幻滅する

 八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞 く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。

 その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦にいたる戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。

 9月2日の戦艦「ミゾリー」号艦上での降伏文書調印式の当日、私は港区田村町の元の日産ビル(当時は満州重工業を作った日産コンツェルンとして有名)にあった終戦連絡事務局(8月26日に占領軍と日本政府との連絡のために外務省の外局として新設された)に出向しており、電力不足で昼も薄暗い大きな事務室の一角で、配られた「指令(名前は不正確かも)第1号」「第2号」の綴りに驚いていた。「第2号」は戦犯逮捕の指令であった。

 それはポッダム宣言から予期され、私も終戦前に第一次大戦後のドイツの戦犯の処理を調査したりしていた。

占領軍による日本の直接統治指令文書を見る

 第1号の方はもっと重大な占領軍の日本直接統治の指令であった。ポツダム宣言で日本は間接統治とされているのにと愕然とした、これは米軍当局者の無知か、連合国の欺隔 か。外務当局の上層部はこれに直ちに抗議しているのだろうかと焦りを覚えた記憶がある。

 『管理法令』では「指令第1号」(9月2日)は 「一・般 命令第1号 、陸海軍」(軍 隊が降伏する諸手続きを定めたもの)を発布する命令を中心にした簡単なものである。だが、私の見たものは、9月10日にワシントンで発表した「日本管理方針」に似たものだった。9月22日に日本で発表された

 「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」の第二部第二節には「現存の日本政府機構を利用するが、それを支持するものではない。」としていたから、正式には間接統治は変えなかったわけだ。

 この直接統治の文書の記憶について私はずっと幻を抱いていたような気がしていた。この点を「占領史研究会」(後に解散)の天川晃(横浜国大教授)、袖井林二郎(法政大教授)両氏に質問したら、やはり降伏当初Proclamations(布告)というものが二、三発せられ、重光外相が交渉して撤回した経緯があったとその頃分かったらしい。戦犯リストも米軍に準備がなく、フィリピン米軍の参謀部であわててズサンなものをでっち上げたことがあったとサザーランド準将のメモワールにあるそうだ。

1945年の8月30日一日だけで神奈川県下の米兵の強盗、せっ盗、婦女暴行は千件超

 私の記憶は幻ではなかった。何しろ米軍が進駐を開始した直後の8月30日一日だけで、私が見た横浜支局からの通報では神奈川県下の米兵の強盗、せっ盗、婦女暴行は千件をこえていた。それは戦時中の宣伝の「鬼畜米英」のイメージそのままであった。

 数日でこの種の報告は禁止された。新聞ではしばらく「黒い大男の犯行」などと表現していたが、やがてそれも許されなくなった。

 米軍は本気で直接統治するのかもしれないと不安になった。その指令の中に「日本政府の官吏の辞職は一切認めない」という項目もあった。「我々も止められないのでしょうか」と慌てて上司に聞いてみたら、「下っ端は問題にならんよ」と一蹴された。

外務省職員は占領軍のメッセンジャーボーイに転落した

 外交官庁から占領軍のメッセンジャーボーイに転落した終戦連絡事務局で、嘱託官はさらに高文を通った事務官の使い走りであった。一つの文書に多くの課長や部長のメクラ判をおしてもらう稟議書(りんぎしょ)を持ち回らされて馬鹿馬鹿しくなった。

 高等文官試験を戦前にパスしていない身でこんな連中に一生使われたのではとても我慢が出来ないと感じた。多分それらが退職を決意させたのだろう。辞令は9月18日付けである。

戦後最初の日記は8月24日(金)敵の第一次進駐は厚木に

 戦後最初の日記。「八月二十四日(金)。大詔を拝して丸十日、どうやら外地各戦線とも停戦は実行された様子。いよいよ敵の第一次進駐は明後日厚木に行われ、明日からは敵の監視飛行が始まって日の丸の飛行機の飛ぶのを見るのは今日を限りとなる。実際には台風で二十八日に延期。

 この十日の心の動きを振り返ると実に複雑なものがある。しかもその中から何等行動の指針がるかみ得なかったところに俺の今の最大の欠点たる無気力が表れている。大詔を拝した瞬間は事をここに至らしめた国民の罪を痛感し陛下にこれほどまでの御言葉を告(の)らせ給うの止むなきに至らしめた輔弼(ほひつ)の臣の無為無策を痛憤した。陛下がこの戦争中国民はその全力を尽くしたとねぎらい給うた時ほど恥ずかしく、嘘だと絶叫したかった事はない。しかも時を経るにつれ、ますます重臣たちが反戦的に策動したという印象が強く戦力が未だ尽きざるに、何と認識が不正確なことだろう。手をあげる事の意地の上からの口惜しさも手伝い、反停戦の暗殺等の噂をきくと、何とか大勢をひっくりかえしてくれぬかとの希望をすら抱いた。

天皇が皇室存続のためのみをはかって講和を決断したのか

 しかし一方東久遍宮の御放送をきくと純粋に大詔を奉戴し再建に努力すべきだとの気持ちも沸き他方、一般人の米占領軍に対する不安についてはどうもそれほど組織的に乱暴は行いそうもないと思うところからやたらに停戦協定に違反する事も考えもの。どうせ再交戦は不可能なのだから、という気もして両者の矛盾に苦しんだ。未だ天皇主義にひたりきっていた若者だが、早くも転換の煩悶が始まっていた。天皇が皇室存続のためのみをはかって講和を決断した経過を全く理解していない。

 そこに様々の指示と戦時中の指針との矛盾が出ていることに迷わされていたのである。

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目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介


官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[以下は覚書]

通産官僚と大分県知事

地方公務員齋藤勝男

地方公務員吉田としお

製鉄会社の計量技術者二人

夜学から大学へ 石川島播磨の男

工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を
据えるようになった。

ほか

[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html




私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励





指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業
の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
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    吉田俊夫 私の履歴書_吉田
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    齊藤勝夫 私の履歴書_斎藤

計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)

計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))

計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
計量士資格認定の申請について
数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
人の言葉の基(もとい)は教養である
産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
田中館愛橘博士と航空の歴史
現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
私の履歴書 安斎正一 目次
古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
古賀茂明 - Wikipedia
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
前川喜平 - Wikipedia
私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)

電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。

日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15

 現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したこと
で話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
 筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
 さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。

 「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
 第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。

計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-

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